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第73回『フォレスト・ガンプ / 一期一会 』 FORREST GUMP 1994年

吉浦潤次(大阪府立交野高等学校)

 これまで授業で扱ってきた映画の中で『ローマの休日』についで生徒たちに人気があったのがこの作品である。知的障害を持つフォレストが、その誠実さや、幼なじみのジェニーに対する一途な愛、ヴェトナムで戦死した黒人兵士バッバへの厚い友情で社会的成功をおさめるところがもっとも生徒たちの共感を得るところだろう。人は誰しも自分が完全ではないと思っている。フォレストの姿は観客が自らを不完全な存在としてとらえる意識の鏡とも言える。不完全な自分でも、誠実にひたむきに人を愛して生き抜くことが、結局は幸福につながるのだということを、この映画を見て観客は再確認しそのことに感動を覚えるのではないだろうか。

現代史をおさえる

 この映画はアメリカの現代史をなぞっている。アラバマ州グリーンボウに生まれたフォレスト・ガンプという架空の人物の成長を、1950年代から1981年までの主な出来事をコミカルに織りまぜて描いている。これを機会にアメリカでその30年間に起こったことを生徒たちと勉強するのも有意義だろう。
 タイムラインに沿って歴史的な事象を取り上げると、まずフォレストの名前の由来がある。彼の母親はアメリカの白人至上主義を唱える秘密結社クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan)の創始者ネイサン・ベッドフォード・フォレストの名前をとってつけたという。その理由は「人間とは愚かなことをするものだ」ということを息子にいつも意識させるためであった。
 次にフォレストが就学年齢に達したとき、I.Q.が75で公立学校への入学基準80に満たないため、special school(障害を持つ子供たちのための学校)へ行かせるように小学校の校長に言われるが、母親は健常児と同じように学校教育を受けさせたいと譲らない。全障害児教育法が法制化され、障害を持つ子どもたちが地域の学校に行けるようになったのは1975年のことで、フォレストの母親は実に先駆的な考えの持ち主であったわけだ。母親の交渉によってフォレストは公立学校入学を果たす。1950年ころのことである。
 フォレストの父はどこかに行ってしまっていたので、収入は多くある部屋を宿泊施設として利用することで得ていた。宿泊客の一人でギター弾きの青年がフォレストの足の装具をつけて踊る姿に好奇心を持ち、自分の歌にあわせて踊らせていた。後年、町のテレビでは、エルヴィス・プレスリーがHound Dogを歌いながら奇妙な踊り方をしていた。どうやらあの青年はエルヴィスで、フォレストの踊り方を真似た、という設定である。ちなみにこの歌が大ヒットしたのは1956年のことであったので、1944年生まれと思われるフォレストは12歳のはずだが、映画ではこの部分の彼の年齢がわかりにくい。ギャグだと考えればあまりこだわることはないだろう。
配布プリント  俊足を買われてアメリカン・フットボールで入学したアラバマ州立大学では、フォレストがおそらく2年生の頃(19歳頃)、1963年6月11日、ジョージ・ウォレス知事が黒人学生の入学を拒み、入り口をふさいだが、結局は州軍と連邦保安官によって退去させられ入学を認めざるを得なかった。実際の映像にフォレストをかぶせるというCG技術がこの場面だけでなく多く使われている。続いて同年、11月22日テキサスのダラスでケネディ大統領は暗殺される。
 やがて大学を卒業したフォレストはヴェトナム戦争へ行く。1965年のことだろう。負傷して戻ってくると、偶然ワシントンでの反戦集会で演説をする。その後幼なじみのジェニーに再会するが、彼女の恋人はブラックパンサーたちと政治活動をしていた。ブラックパンサーは1960 年代後半から1970 年代にかけて黒人民族主義運動・黒人解放闘争を展開した政治組織である。
 リチャード・ニクソンが大統領に就任すると、フォレストはヴェトナムの病院で覚えた卓球の腕前を買われて中国へ親善試合に行く。いわゆるピンポン外交である。1971年4月アメリカを初め5カ国が中国を訪問し、翌年毛沢東とニクソン大統領が会談した。米中の国交が樹立された記念すべき年である。しかしながら、1972年、ウオーターゲート・ビルにある民主党本部での盗聴事件が発覚し、大統領が関わっていたことが明るみに出て辞任に追い込まれる。映画では、フォレストの中国親善試合の労をねぎらったニクソン大統領が、いいホテルだと言って紹介したのが「ウオーターゲート・ホテル」で、ウオーターゲート・ビルの向かいであった。フォレストは、向かいのビルで暗闇の中を懐中電灯がちらつくのを見て、停電だと思い守衛に電話をするが、実はこれが盗聴器を仕掛けた犯人たちで、後で大統領辞任のテレビニュースが流れる。ウオーターゲート事件である。フォレストの通報によって大統領が辞任するというのももちろんギャグである。
 エビ漁で大富豪になったある日、フォレストは幼なじみジェニーから一通の手紙を受け取る。テレビニュースでは第40代大統領ロナルド・レーガンの狙撃事件が報じられていた。1981年3月30日のことである。

 手紙を持って訪ねると、ジェニーはなんらかのウィルスによる病気にかかっていることをフォレストに告げる。AIDSという言葉の初出は1982年ということである。

取り上げるシーン

 ※示した英文は各シーンの中心となる台詞である。

1.母の教育観

 フォレストの母は息子に他の子どもたちと同じチャンスを与えたいという信念の持ち主だった。小学校の校長とフォレストの入学を巡って話す場面をとりあげる。

Mrs. Gump: He might be ... a bit on the slow side, but my boy Forrest is going to get the same opportunities as everyone else.

2.ジェニーとの出会い

 初めて小学校に行く日、足に装具をつけているフォレストがバスに乗ると、空いている席があっても子どもたちは譲らない。その中でただ一人優しい声をかけてくれたのがジェニーだった。ジェニーは父親から児童虐待(child abuse)を受けていることが後でわかってくる。

Jenny: You can sit here if you want.
Forrest: I had never seen anything so beautiful in my life. She was like an angel.

3.ヴェトナムに行くフォレスト

 ジェニーはかつてジョン・バエズのようなフォーク歌手になるという夢を持っていたが、フォレストが探し見つけたジェニーは場末の劇場でいかがわしい客の前で歌を歌っていた。客との間で言い合いになったとき、フォレストはジェニーを助けようとする。だが、ジェニーはそれをいやがった。

Jenny: Just -- you can't keep doing this all the time.
Forrest: I can't help it. I love you.
Jenny: Forrest... You don't know what love is.

 しかし、フォレストの口から「ヴェトナムに送られるんだ」という言葉を聞いたとたんに、ジェニーは姉が弟を心配するように、“Listen, you promise me something, O.K.? Just if you're ever in trouble, don't try to be brave. You just run, O.K.? Just run away.”と言う。

4.母の死

 エビ漁で大富豪になったフォレストに母が危篤であるとの連絡が入る。ここでの親子の会話は映画の核心に当たる部分だと思われる。「死は人生の一部」とする死生観が表れている。

Mrs. Gump: Death is just a part of life. Something we're all destined to do. …
You have to do the best with what God gave you.
Forrest: What's my destiny, Mama?
Mrs. Gump: You're going to have to figure that out for yourself. Life is a box of chocolates, Forrest. You never know what you're going to get.

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この記事は、「新英語教育」2010年3月号より加筆・修正の上、転載をしました。
また、 文中のYouTubeの動画表示は、サイト編集部で追加をしました。