新英語教育研究会 第46回 全国大会(東京大会)
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清泉女子大学

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本館:旧島津公爵邸

パンフレット表紙
 清泉女子大学の本館は、旧島津公爵邸をほぼそのままに大学の建物として使っています。
 「清泉女子大学本館(旧島津公爵邸)」というパンフレットの内容をご紹介します。

1.沿 革

 この地は、寛保3年(1743年)仙台伊達藩の下屋敷(敷地面積22,670坪)として開発され、明治6年(1873年)に島津家の所有に移るまで約130年間使われた。
 島津家では、この地が「袖ヶ崎」と呼ばれていたところから、「袖ヶ崎邸」として、桜田にあった旧島津藩上屋敷とは別に、公式行事の開催場所に使用し、大正12年(1923年)の関東大震災後に本邸とした。
 袖ヶ崎邸は、当初伊達藩の木造家屋をそのまま使用していたが、老朽化が進んだため、英国風の洋館に改築することを計画し、日本政府の招きにより来日し工部大学校建築学科の教授であった英国人J.コンドルに、明治39年(1906年)に設計を委嘱し、その後数度の設計変更を経て、大正4年(1915年)に建物の竣工をみ、その後館内の設備や調度が整えられ、大正6年(1917年)に落成披露が行われた。

2.館内施設の配置

 建物は地上2階地下1階の構造となっている。島津公爵邸時代は、地下は主としてボイラー室、作業室、倉庫等に使用され、地上1階は島津家の公式のエリア即ち応接室、バンケットルーム、書斎等に使われ、2階はプライベートなエリアとして、公爵夫妻の私室、家族の私室等に使用された。島津邸当時の見取り図は次の通りで、括弧の中は現在使用のものである。
見取り図(パンフレットより)

3.その後の沿革

 昭和初期に金融恐慌のあおりで島津家も財政的な打撃を受け、当初約3万坪あった敷地を昭和4年(1929年)には8千余坪を残し、周辺部を売却した。その後第二次世界大戦の苛烈化に伴い、大邸宅の維持が困難となり、島津家は袖ヶ崎邸を日本銀行に売却した。戦中、戦災を免れた邸宅は、戦後昭和21年(1946年)1月にGHQの管理下に入り、駐留軍の将校宿舎として昭和29年(1954年)まで使用された。
 接収解除後の昭和36年(1961年)7月に、清泉女子大学は日本銀行から土地、建物を購入し、昭和37年(1962年)4月に横須賀から大学を移転して、今日に至っている。

4.建築専門家の解説

  坂本勝比古(千葉大学教授)
   建築雑誌「新住宅」第25巻昭和45年5月号
            明治の西洋館/60より転載。

 この邸宅の基本プランは、東に面して玄関およびポーチをとり、敷地南側の広い芝生やつつじの築山のある庭園に向かって大きな二層のベランダを配し、このベランダに沿って主要な部屋が設けられている。
 外観はルネッサンス・リバイバルのもので、イタリアルネッサンスの邸宅建築に用いられたモチーフを豊富に取り入れ、かなり厳格な古典的規範を継承している。とくに南側コロネード・ベランダ(列柱廊)の扱いは見事であり、1階にタスカン風オーダー、2階にアイオニック風オーダーを用いペデスタル(基礎)や、コーニス(胴及び軒蛇腹)、手摺りなど、いずれも石造とし、その精微な加工技術とともに、美しさと量感をもって迫ってくるものをもっている。また、古典的な意匠から受ける堅苦しさをやわらげるため、ゆるい曲線をもつ張り出し部分を設けている。玄関ポーチ部分は、堂々とした構えで、独立した円柱と半円柱がパラペット(胸壁)を受けている。外壁の隅石や円柱に用いられた石は新小松石で、伊豆石とも呼ばれ、神奈川県の真鶴から採れる安山岩を使用している。
 この邸宅が建築されたとき、時代は明治から大正へと移り変わっており、外壁の壁面に用いられた白色のタイルは、煉瓦造の建築でありながら赤煉瓦化粧積みの手法を脱して、白タイルの壁面による新しい意匠上の感覚をねらったものとみることができる。コンドルの設計になる数少ない現存住宅建築の遺作として、注目すべきものがあり、彼の晩年の力作の一つに数えることができるものである。

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